1通の葉書が届きました。我が作曲の師匠、浦田健次郎先生の死を告げるものでした。文面によると某日、近親者のみで見送ったと。いつ、何歳でという事は書かれていませんでした。
啼鵬、業界のメディア情報関係は、そんなに疎い方ではないと思っていますが、先頃新聞には、父松本定芳の作曲の師匠、松平頼暁先生の訃報。全く寝耳に水で、東京藝術大学名誉教授であらせられた先生の死が、報道もされずにこのような形で我々弟子に伝わるのに、寂しさを覚えました。
啼鵬は高校生の3年間と、大学の2年間、浦田先生のレッスンを受けました。啼鵬が芸高生当時、先生は「教育補助」という肩書きを。これは高校生にレッスンをする資格だったのか、兎に角芸高生での弟子は、後にも先にも啼鵬のみだそうで。先生は「キミだけで懲りた」と仰っていました。
芸高の3年間は「芸大に入るための」勉強。いわゆる作曲の基礎を叩き込まれた形です。取り分け3年次はレッスンも週2回になり、和声学、対位法、自由作曲をみっちり。
表向きは「受験用」のレッスンとは言え、多感な時期に音楽を勉強するという事は、その後の音楽家形成に大きく影響する訳で、言ってみればこの時期に学んだことが、アーティスト「啼鵬」の土台に。
浦田先生、とても厳しかったです。と啼鵬が言うと、先輩方からすれば「オマエの頃は、もう大分丸くなってたよ」と。泣きながらレッスン室を後にした先輩もいたとか。
最後にお会いしたのがもう10年以上前(2009年4月25日参照)。結局商業音楽の現場に生き、アカデミックな世界では評価される事のない不肖の弟子で申し訳ありません。門下生には優秀な作曲家になられた方もたくさん。これからも先生の名を汚さないよう、啼鵬なりに精一杯活動して参ります。先生には感謝しかありません。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
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