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2008年7月18日 (金)

追悼:石田文樹さん

 さして野球に興味も無い私ですが、高校野球は昔から好きでした。そして恐らく初めて夢中になって見た試合が、我が茨城の取手二高の試合でしょう。そのときのエース、石田文樹さんが、41歳という若さで亡くなられました。

 取手二高が全国制覇をしたのは、忘れもしない私がまだ小学5年生の頃。また「取手二高の石田」という、高校球児で初めて覚えた名前でもあります。当時買って間もなかったビデオに試合を録画し(βでした)、父が会社から帰ってきてから、また家族で見たのを覚えています。

 それ以降、当時の監督の木内幸男氏の躍進が始まるわけですが、その木内監督も、常総学院を優勝に導いた後、勇退。しかしまた返り咲き、今年も陣頭指揮をとっています。茨城県内では師弟対決も行われていたり。

 茨城を一気に野球県にした、取手二高の選手達。彼らのプレイは、我々茨城県民、はたまた私のような少年にまで、多くの夢と希望を与えてくれました。

 石田文樹さんへ、心よりご冥福をお祈りいたします。

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コメント

私は仕事柄、県内の色んな地方へ行く事があるのですが、出身の話になると必ず「甲子園で優勝した取手二高があるところですよね」って言われます。
私自身は取手二高が優勝したという事自体知らなかったんですが、そんな会話をきっかけに相手と距離が縮まる事(時にはそのまま取手二高が優勝した時の試合についての話が酒の肴になる事も…)があります。
それらは石田さんや木内監督をはじめとする当時活躍された方たちのおかげだったんですね。

まだまだ先のある若さでお亡くなりになられた石田さんのご冥福をお祈りします。

> 宮ノ助さん
 私は今でもマウンドに立つ石田さんを思い出す事があります。水色のユニフォームを着たナインの姿は、当時ボクらのヒーローでした。

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